「あさが来た」の広岡浅子と「花子とアン」の村岡花子

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「あさが来た」の広岡浅子と「花子とアン」の村岡花子

NHKの朝のドラマでキラキラと輝いていたヒロインの二人は出逢っていたんです。

「あさが来た」で知名度が広がった広岡浅子嘉永2年(1948)に京都の豪商・出水三井家に生れました。その、彼女の育った当時は、女性が商売をするということはありませんでした。ですが、持ち前の商才で、晩年には、現在の大同生命日本女子大学などの設立に深く関わっていくになっていきます。

そんな広岡浅子ですが、NHKの朝の連続ドラマの「花子とアン」の村岡花子とも接点がありました。

花子が翻訳の夢を実現させるきっかけを作ったのはこの広岡浅子だったのかもしれません。

広岡浅子の座右の銘は【九転十起】

 

維新後に嫁ぎ先の家勢が大きく傾いていきます。そこを広岡浅子は、おのれの商才ひとつで道を気に開くとともに周りの協力とともにピンチをくぐり抜けていきます。

そんな彼女の座右の銘は【九転十起】です。

達磨さんよりも、もっともっと起き上がること・・・・・・他の人が七転八起なら、自分はさらに起き上がることのできる人になろうとしました。

数々の困難を切り抜けて、ビジネスで成功を納めた浅子は、夫が亡くなると、あっさりと実業界から引退をしてしまいます。そこで、これからの人生を女性の人材の育成に力を注いでいくのです。

 

 

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村岡花子と広岡浅子

広岡浅子は、これと思った若い女性を集めて静岡県御殿場にある自分の別荘で勉強会を開いた時期もあります。

ここには、日本女子大学校の卒業生、矯風会のメンバーや知人などを20人ほど集めました。そこに村岡花子の名前があったのです。

 

「矯風会」は子供や女性の人権のための社会改革を目指す婦人団体です。そこに村岡花子は参加をしていました。そこで出会ったジャーナリストの小橋三四子らを通じて、広岡浅子の主催する御殿場二の岡での夏期講習会に参加をするチャンスが巡って来たのでした。

「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子さんってどんな人?

1893ー1968年。旧姓を安中はな・・・といいます。終戦を迎えた1945年に『Anne of Green Gables』を訳了し、その7年後(1952年)に同作品を『赤毛のアン』として刊行します。それ以来1959年までに10冊のアン・シリーズを翻訳・出版していきました。

 

貧しい商人の娘として生まれた花子は10歳の時に、山の手のお嬢様たちの通うミッションスクール(東洋英和女学校)に給費生として編入します。そこで「英語のお花さん」と呼ばれるほどの英語の実力を付けます。卒業後は地元の山梨に戻り、姉妹校である山梨英和女学校の英語教師になります。

 

花子の語る美しい物語に生徒たちを魅了させますが、浅子と出会い、「大人も子供も読める物語を生み出したい」という夢を実現する為に教師を辞めます。上京し、翻訳や出版に携わります。そして、結婚、終戦と年月を重ねていき、「赤毛のアン」を世に出していくことになるのです。

 

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赤毛のアンの物語の中でマニラがアンに送った言葉

「女の子はその必要が起ころうと起るまいと一人立ちができるようにしておいたほうがいいと、あたしは思うんだよ」

 

困難な時代であっても立ち向かう勇気は必要なんですね。村岡花子さんと広岡浅子さんの時代に負けない元気をもらったような気がします。

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